2013年1月27日日曜日

「通信モデル」から「推論モデル」へ (2):通信モデルにはそれがわからんのですよ

前回のエントリでは,20世紀の中盤から後半にかけて広く受け入れられた「通信モデル」について,あらましを紹介しました.その要点は,次のとおりです:
  • ポイント1:「伝達とは送信者から受信者へとメッセージを送信することである」;
  • ポイント2:「そのメッセージは送信者と受信者が共有しているコードに照らし合わせて信号に符号化され,解読される」;
  • ポイント3:「送信者が最初にもっているメッセージと同じものが受信者によって再現されれば,伝達が成功したことになる」

さて,この通信モデルは,いまの言語学では大きく見直され,「推論モデル」への移行が進んでいます.もちろん,これはファッションのような流行で変わっているわけではなく,通信モデルでは言語による伝達を説明する上で大きな問題があるためです.詳しい話は,のちほど標準的な教科書による解説を訳文でごらんいただくとして,まずは,ざっくりと単純なことをお話ししましょう.


信号にないのに「メッセージ」には含まれている!


通信モデルにおける伝達とは,送信者がメッセージを信号に符号化し,受信者がこれを復号してメッセージを取り出す過程です.こうした通信モデルの難点を示すには,信号にまったく符号化されていないのにメッセージとしては現に伝達される要素があることを示すのがいちばん明快です.具体的な例を見てみましょう.

省略と「暗示」


信号に含まれないという点では,「省略」はいちばんストレートな例でしょう:
例 (1)
A: 「あれっ,冷蔵庫にいれといたアタシのプリンがなーい!」
B: 「あ,ごめん.わたしが食べた」
ここでは,Bさんの返答で「食べた」の目的語が省略されています.しかし,直前のAさんの言葉から,食べたものは「Aさんのプリン」であることはすぐにわかりますね.

また,省略とは少しちがいますが,次のような例でも,言葉に言われていない要素を考慮しなくてはなりません:
例 (2)
うっかり指を切ってしまった子供に母親が:
You are not going to die, Peter.(死にゃしないわよ,ピーター)
(Bach 1994: 267) 

DIE「死ぬ」は1項述語ですから,さきほどの「食べる」とちがって項が省略されているわけではありません.しかし,これもそのままでは「死ぬことはない」=「ピーターは永遠に不死である」という意味になってしまいます.言外に,「指を切ったくらいで」「そんな傷のせいで」くらいの要素を補ってはじめて,私たちが常識的に理解する意味になります.(こうした言外の要素を「暗示」(implic-i-ture) と呼びます.同じく言外の意味である「推意」(implic-a-ture) と紛らわしいので注意してください)

間接的な言い方


例 (3)
休憩しに喫煙室に入った2人のうち,一方の Aさんがしばらくポケットを探ったあと,相方の B さんに言う:
A: 「ライターもってる?」
B: 「いっすよ.どうぞ」(自分のポケットからライターを取り出して渡す)
この会話で,Aさんが発している言葉は,文法的には「はい/いいえ」で答えられる疑問文のかたちをとっています.ですが,B さんはこれに「はい」とも「いいえ」とも答えず,自分のライターを渡しています――なぜなら,Aさんが言わんとしていること(「メッセージ」!)は,「ライターを貸してくれよ」というお願いだとすぐさまわかるからです.こうしたやりとりは,ごく自然にふだんの生活でなされますね.でも,Aさんの言葉(信号)には,「お願い」という意味は符号化されていません.通信モデルでは,この間接的なお願いは手に負えないわけです.

こういう間接的なお願いには,興味深い点がもう2つあります.

第一に,はい/いいえの質問もちゃんとなされているということ.たとえば上記の会話ですと,たまたまBさんがライターをもっていなければ,「いいえ」と答えるでしょう:
A: 「ライターもってる?」
B: 「いえ.すみません,もってないんですよ.実は禁煙中で.」
こうした間接的な言い方では,質問を経由してお願いをするというかたちをとっています.

第二に,文脈さえ違えば,この「ライターもってる?」というまったく同じ文を発して,ほんとうにただの質問もできるということ.たとえば,お盆にお墓参りにでかけようというところで,荷物を確認しているとしましょう:
例 (4)
A: 「お水よし,お供えよし,線香よし.…あっ! おとーさん,ライターもってる?」
B: 「ちゃんともってるよ~」
こういうときには,おとーさんは「はい,どうぞ」と娘にライターを渡したりはしません.文脈からして,この質問を間接的な依頼だと受け取るのは不適切だからです.

比喩的な言い方


信号に含まれていないのにメッセージとしてちゃんと伝えられるものには,比喩もあります.
例 (5)
段ボールいっぱいのがらくたを運ぼうとしているハカセがロボットメイドさんに:
ハカセ:「あー,ロボ子さん,ちょっと手を貸してくれんか」
ロボ子さん:「…わかりました」(ギリッギリッギリッと腕パーツを外してハカセに渡す)
ハカセ:「あー,うん……ありがとね」
ここでハカセがうっかりしていたのは,ロボ子さんには「手を貸す」という比喩的な意味を理解する仕組みを与えていなかったことです.

もっとも,「手を貸す」なら,「助力する」を意味する慣用的な表現として定着していて,比喩らしさが薄れていると言えるかもしれません.しかし,私たちの日常会話には(新規な)比喩がよく登場します:

  • 「なんか無線LANが詰まってるな」(隠喩)
  • 「あ,ぼくはハンバーグ定食です」(換喩)
こうした比喩的な意味は,言葉の文字通りの意味には含まれていません.したがって,こうした表現の意味を理解するためには,たんにコードにしたがって信号からメッセージを取り出すだけでは間に合わないのがわかります.

いったんまとめ


以上,具体的な例をみてきました.こうした例はふだんの言葉のやりとりで当たり前に登場しますが,どれも「信号(言葉)に符号化されていない要素がメッセージの一部として伝えられる」事例です.当然ながら,通信モデルではこうした例をまともに扱うことができません.こうした例をざっと見るだけでも,言語による伝達を考えるには単純な通信モデルではどうも不足らしいな,ということがみえてきます.

リーディング:「メッセージ・モデルの問題点」


ここまでは,ごく略式のお話をしてきました.

では,もう少しだけ学問らしく,通信モデルの問題点を整理した解説を読んでみましょう.これからご紹介するのは,次の教科書からの抜粋・翻訳です:
Akmajian, A., Richard A. Demers, Ann K. Farmer, and Robert M. Harnish 2010. Linguistics: An Introduction to Language and Communication (6th edition). Cambridge, MA: MIT Press.

ここでは,メッセージ・モデル(通信モデル)の問題点を6つにわけて整理しています.そこそこ長文になりますが,ぜひ通読して理解を掘り下げてください.

メッセージ・モデルの問題点 (Akmajian et al. 2010, pp. 368-371)

表現の意味を決定するには,聞き手は心の中で文を処理しなくてはならない.その文には,人間言語の複雑な構造的特性が反映されている.たとえば,構造的あいまい性や非連続な依存関係といった特性だ(第5章での議論を思いだそう).文のもつ意味を復号するのもたしかに言語による伝達の決定的な部分ではある.だが,伝達の過程は,文の構造的特性を処理し意味を復号するだけで終わるわけではない.それどころか,この過程は,それ以外にものすごくたくさんのことがある.そして,メッセージ・モデルはここでいくつもの問題に行き当たる.ここでは,メッセージ・モデルがぶつかる典型的な問題を6点とりあげて概要を話そう.この概説をとおして,伝達の過程がどれだけ複雑なものなのかわかってもらえればありがたい.
第一に,多くの表現は言語的にあいまいなので,聞き手の方である表現がもちうる何通りかの意味から話し手がその場で意図しているものを判断しなくてはならない.メッセージ・モデルに言わせれば,あいまい性除去の過程はいかなる原理にも統率されていない.実際,メッセージ・モデルはそうした原理をなにも提供しない.だが実際には,あいまい性除去は原理のないランダムな過程ではなく,たいていはかなり予想がつく.たしかに滑稽な誤解のケースもしょっちゅう起こるものの,一般に,曖昧な表現に適切な読みを引き出す仕事をぼくらはうまくやっている.あいまい性を乗り越えるために,聞き手は推定を立てる.話し手の言うことは【その文脈にとって適切だ】(contextually appropriate) という推定だ.たとえば,空港の区画を議論する会議で誰かがこう発言したとする:
Flying planes can be dangerous
〔※「空を飛ぶ飛行機はキケンだ」とも「飛行機を飛ばすのはキケンだ」ともとれる〕
この発言は,頭上を飛ぶ飛行機の危険性を問題にしているものと自然に受け止められるだろう.だが,パイロット保険委員会の会議では,この文は飛行機を飛ばすリスクを思い起こさせる発言だと自然に受け取られるだろう.他の例を挙げよう.こんな会話を想像してほしい:
(4)
A: We lived in Illinois, but we got Milwaukee's weather.
(ぼくらはイリノイに住んでたんだけど,天気はミルウォーキー〔みたい〕だったね)
B: Which was worse.
さらに追加でなんらかのヒントがないと(たとえば誇張気味なイントネーションがないと),Aさんには,Bさんが断定しているのか質問しているのかわからない:
(5)
断定:「天気がミルウォーキー〔みたい〕だなんて,なおさらひどい」〔which は A の発言を受ける関係代名詞として解釈される〕
質問:「どちらの天気の方がひどいの?」〔which は疑問詞として解釈される〕
このように,自然言語でいたるところに顔をのぞかせるあいまい性を相殺する原理でメッセージ・モデルを補足してやらないといけない.これが【あいまい性】の問題だ.
第二に,その場で指示される特定のモノに関する情報がメッセージには含まれているという事実も,そうした指示が表現の意味によって一意に決定されることがないという事実も,メッセージ・モデルは説明できない.たとえば,the shrewd politician(辣腕政治家)という句はいろんな場面でいろんな人を指して使える.ウィンストン・チャーチルかもしれないし,ビル・クリントンかもしれない.それでも,この句はいつでも1つのことを意味する(「辣腕な政治家」という意味だ).話し手が意図する指示対象がウィンストン・チャーチルかもしれないしなのに,ビル・クリントンのことだと考える聞き手は,相手のメッセージを正しく理解できていないことになるだろう.だから,特定の人物・場所・モノを指示しようとする意図を首尾よく認識する仕組みをメッセージ・モデルに補ってやらないといけない.これが【(意味による)指示の過少決定】(underdetermination of reference (by meaning) の問題だ.
第三に,メッセージ・モデルの描く図式では,首尾よい伝達とはたんに有意味な表現を産出し,聞き取り,理解することにつきることになっている.だが,それで伝達はおしまいではない.これまでこのモデルに欠けているのは,話し手の【伝達意図】(communicative intention) の説明だ.話し手の伝達意図は,一般に,発話された表現の(言語的)意味では一意に決定されないけれど,伝達されるメッセージの一部になっている.たとえば,I'll be there tonight(今晩(ぼくは)そこに行くよ)は予測かもしれないし,約束かもしれないし,ことによると脅迫かもしれない.どれなのかはしかるべき状況での話し手の意図しだいだ.話し手側がもつ意図はこのようにいろいろありうるけれど,この文には,その場で関連する意味は1つしかない.これが,【伝達意図の(意味による)過少決定】(underdetermination of communicative intention (by meaning) の問題だ.
第四に,メッセージ・モデルでは,【非字義的に】(non-literally) 話すこともよくあるという追加の事実も説明されない.つまり,自分が発した言葉が意味することを相手が意味していないこともある.よくある例では,反語や皮肉もあるし,隠喩みたいな言語の比喩的使用もある.だから,たとえば話し手が Oh, that's just great (わあ,ありがたいねどうも)と言ったとして,しかるべき文脈では,言葉が意味するのと反対のことを意味していると受け取られることもある.(朝,通学する途中で車がパンクしているのに気づいたのを思い浮かべてみるといい.) 非字義的な事例は,メッセージ・モデルにとってはとくに取り込みづらい.非字義的な伝達では,話し手によって伝えられるメッセージに字義的な意味がまったく含まれていないからだ.むしろ,聞き手がその字義的な意味を *使って* 話し手が本当に伝達しようと意図していることを割り出すのが意図されている.これが【非字義性】(nonliterality) の問題だ.
第五に,文が意味すること以上を伝達しようと意図する場合がときにあるのをメッセージ・モデルは説明しない.【間接的な】話し方をする場合がある.つまり,ある伝達行為の遂行を経由してそれと別の伝達行為を遂行するのを意図することがある.たとえば,パンクを修理してもらう意図をもってガソリンスタンドの店員に「タイヤがパンクしてるんです」(My car has a flat tire) と言うのは,ごく自然なことだろう:この場合,ぼくらは聞き手にあることを *する* ように *依頼* しているわけだ.でも,自分が発話している文はたんに車の状態を報告しているだけなのに,どうやって話し手は聞き手になにかやってもらうことを意味できるんだろうか? 答えはこうだ――この文を発話する際に,話し手は不十分だと推定される事態を(字義的に,かつ)*直接的に* 報告しており,かつ,聞き手にその事態を修復してもらうよう *間接的に* 依頼している.話し手が直接的にだけでなく間接的にも話しているのだと,どうして聞き手にはわかるんだろう? ここでも,答えは文脈的な適切性だ.上記の例では,ガソリンスタンドでたんにパンクを報告するだけというのはその文脈にとって適切でない.これと対照的に,たとば警官にどうして違法駐車しているのかと質問されて運転手がたんにパンクしているのを報告するのは,文脈にとって適切な返答になる.後者の場合には,聞き手(警官)は話し手の言葉を隊や修理の依頼だなんて受け取ったりしないはずだ.ここでも,首尾よい伝達にあたって文脈にとっての適切性の推定が驚くほどいたるところで一役買っているのがわかる.話し手はそっくり同じ文を使って文脈しだいで実にいろんなメッセージを伝えられる.これが【間接発話】(indirection) の問題だ.
最後に,メッセージ・モデルがぶつかる第六の問題は,メッセージの伝達がいつでもぼくらの発言の目的とはかぎらないということだ.メッセージ・モデルは,こうした用法とまったく接点がない.たとえば,解雇通告や洗礼といった *制度的な* 行為がある.その機能は当該人物の制度的な状態を変えることにある.また,野球の走者にアウトを告げたり被告に有罪を宣告するといった制度的な言語行為もある.こうした例には,制度的・社会的な帰結をともなう事実の判断が関わっている.伝達の成功は,こうした発話の主眼ではない.なぜなら,発話を聞く方がそのとき理解しようがしなかろうが,ランナーはアウトになるし,従業員は解雇されるし,赤ちゃんは洗礼を受けるからだ.このように,こうした行為が成功するのに,伝達意図の認識は必要ではない.同様に,聞き手になんらかの効果を引き起こすのに関わる言語行為もある(これを「発語媒介行為」(perlocutionary act) という;「特別トピック:言語行為」を参照).たとえば,聞き手を説得したり,感心させたり,欺いたりする意図をもって話し手がなにか言ったものの,相手の方は,ちゃんとその話し手の意図を認識しつつも,説得されなかったり,感心しなかったり,欺かれなかったりすることもある.これと対照的に,伝達意図はかならず認識されるよう意図されている.これが【非伝達的行為】(noncommunicative act) の問題だ.

課題

さて,またしても長文の通読,おつかれさまでした.今回も,少し課題を指定しましょう.

いまお読みいただいた「メッセージ・モデルの問題点」の6項目について,自分で考えたり探したりして具体例を挙げてください.それぞれの具体例について,どうしてそれが「メッセージ・モデル」にとってやっかいな例になるのか,解説をつけてみるといっそう理解がすすみます.


参照文献

  • Bach, Kent 1994. "Semantic slack: What is said and more." In S. L. Tsohatzidis (ed.) Foundations of Speech Act Theory: Philosophical and Linguistic Perspectives. London: Routledge, 267-291.





1 件のコメント:

  1. 『通信の数学的理論』(クロード・E・シャノン:ちくま学芸文庫)の「まえがき」に次の一節があります。

     通信の根本的な課題は、ある地点において選ばれたメッセージを、別の地点で正確にあるいは近似的に復元することである。しばしば、メッセージは意味を持っており、意味は、物理的または概念的な実体を伴う何らかのシステムに従って、メッセージが参照したり関係したりするものである。このような、意味論的な観点から見た通信は、工学的な通信の問題とは無関係である。重要な点は、実際のメッセージが可能なメッセージの集合の中から選ばれたものであるということである。」(P061~062)

     機能論者はこの注意の意味が理解できていません。もっとも、『統辞構造論』では文法の独立性を主張し意味と文法を切り離していますが、そのむくいでまともな言語論、文法論にはなっていません。トマセロらの認知言語学も同じレヴェルです。言語は、意味と形式という矛盾の統一という運動形態による表現をその本質としています。形式論理では解明不可能です。文は話者の認識に支えられており、聞き手は文法を媒介として話者の認識を追体験することにより、話者の意図と、元々の対象に迫ることが出来ます。意味とは話者の認識と表現された文・文章の客観的な関係です。親が亡くなっても、子としての関係は残るように作者が亡くなっても、作品に結び付いた作者の認識は関係として残ります。この関係を追体験することにより話者の認識に迫ることが出来ます。残念ながらクルーズの認知言語学的発想は形而上学(形式論理)でしかなくこの本質を明かにすることはできません。

     ジョルジュ・ム-ナンが、「いまもって意味論はその根本原理すら確立していない」と嘆き、生成意味論を冷笑するしかないのにはそれなりの理由があります。エンゲルスの「弁証法を軽視すれば罰なしにはすまされない。」(『自然の弁証法』「心霊界での自然研究」)という箴言を噛みしめてみる必要がありそうです。『記号学と言語学』(三浦つとむ)参照■

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